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第5回:日本の電力会社の誕生と送電網を作った人々(人物伝編)

発電所で生まれた電気は、そのままでは社会を動かせない。 家や工場へ“届ける道”があって初めて、光も機械も動き出す。

明治の日本には、その道がなかった。 それでも藤岡市助、木村駒吉、松永安左エ門らが立ち上がり、 電気を届ける仕組み――送電網と電力会社の基盤を築いていった。

本章は、彼らが日本に「電気の通り道」をつくった物語である。


電気の歴史シリーズ
 全体目次(第1回〜最終回)


目次(上)
  1. 藤岡市助 ― 東京に光を通した最初の挑戦者
    1. 1-1 暗い東京に「電気の光」を通したい(〜1880年代前半)
    2. 1-2 東京電灯の創業と、壁だらけの挑戦(1886年〜)
    3. 1-3 日本初期の送電線を張り巡らせる(1887〜1888年)
    4. 1-4 東京に灯った最初の光(1887〜1888年)
  2. 木村駒吉 ― 商都・大阪に電気を根づかせた実務家
    1. 2-1 大阪に広がり始めた電気への期待(1880年代後半)
    2. 2-2 大阪電灯の創業と事業拡大(1888年〜)
    3. 2-3 送電技術の進歩と大阪圏への広がり(1890年代)
    4. 2-4 大阪に根づいた「電気のある暮らし」
  3. 松永安左エ門 ― “電力王”が描いた国家規模の電力網
    1. 3-1 九州で芽生えた「電力は国家の血流だ」という思想(1900年代初頭)
    2. 3-2 九州電灯鉄道の改革と広域化(1910〜1920年代)
    3. 3-3 電力国家管理論との対立(1930年代)
    4. 3-4 戦後改革と10電力体制の設計(1945〜1951年)
    5. 3-5 “電力王”と呼ばれた理由
  4. 送電網の整備 ― 電気を遠くへ、安定して届けるために
    1. 4-1 初期の送電技術の限界(1880〜1890年代)
    2. 4-2 高圧交流送電の普及(1890〜1910年代)
    3. 4-3 水力発電と長距離送電の時代(1910〜1930年代)
    4. 4-4 広域連系の始まりと“東西周波数問題”(1920〜1930年代)
    5. 4-5 戦時体制と国家管理(1939〜1945年)
    6. 4-6 戦後の再編と10電力体制(1951年〜)
    7. 4-7 送電網が社会をどう変えたか
  5. (補足)松下幸之助 ― 電気を“暮らし”に変えた男
    1. 5-1 電気が届いた先に生まれた新しい需要(1910〜1920年代)
    2. 5-2 二股ソケットは“倒産寸前の町工場”が生んだ逆転の一手(1918年)
    3. 5-3 家電の普及と“電気のある暮らし”の誕生(1920〜1930年代)
    4. 5-4 戦後の危機とGHQとの攻防(1945〜1947年)
    5. 5-5 三種の神器を全国に広げた家電産業の牽引者(1950年代)
    6. 5-6 電力網 × 家電普及が生んだ高度成長のエンジン

藤岡市助 ― 東京に光を通した最初の挑戦者

1-1 暗い東京に「電気の光」を通したい(〜1880年代前半)

明治の東京は、夜になるとほとんど真っ暗だった。 ガス灯はあったが数は少なく、街は闇に沈む。 その状況を変えようと動いたのが、工学者・藤岡市助である。

藤岡は 1884年(明治17年) にエジソン電灯の技術を学び、 「東京の夜を明るくしたい」という強い信念を抱くようになる。 当時の日本では電灯事業は未知の領域で、 成功を信じる人はほとんどいなかった。

1-2 東京電灯の創業と、壁だらけの挑戦(1886年〜)

藤岡は、1886年(明治19年) に仲間とともに 東京電灯会社を設立する。

しかし、そこからが本当の苦闘だった。

  • 資金が集まらない
  • 技術者が足りない
  • 発電所の建設も手探り
  • 電線を張る許可すら簡単には出ない

それでも藤岡は、 「まずは光をともして見せることがすべてだ」 と考え、実験と工事を重ねていく。

1-3 日本初期の送電線を張り巡らせる(1887〜1888年)

東京電灯は 1887年(明治20年) に東京・銀座近くに 最初期の発電所を建設し、 そこから街へ電線を伸ばし始めた。

当時の送電は低圧で距離も短く、 いまのような大規模な電力網とは比べものにならない。 それでも、

「発電所 → 変電設備 → 電線 → 家や街灯」

という“電気の通り道”を東京に初めて作ったのは藤岡たちだった。

この仕組みが、のちの日本の電力網の原型となる。

1-4 東京に灯った最初の光(1887〜1888年)

そして 1887年(明治20年)、 東京の街に電灯がともる。 翌 1888年(明治21年) には供給区域が拡大し、 電灯の光は徐々に東京の夜を変えていった。

  • 夜の街が少しずつ明るくなる
  • 商店の営業時間が延びる
  • 工場が夜間操業を始める
  • 電気への期待が一気に高まる

藤岡の挑戦は、東京に電気を“届ける”仕組みの出発点となり、 日本の電力事業の扉を開いた。

木村駒吉 ― 商都・大阪に電気を根づかせた実務家

2-1 大阪に広がり始めた電気への期待(1880年代後半)

明治後期、大阪は「商都」として急速に発展していた。 商店、工場、港湾――どれも夜間の明かりと動力を求めていた。

そんな中で電気の可能性に早くから注目したのが、 実務家として知られた 木村駒吉 である。

木村は、東京の藤岡市助とは異なり、 「電気は商売になる」「大阪の産業を強くする力になる」 という現実的な視点で電灯事業に踏み出した。

2-2 大阪電灯の創業と事業拡大(1888年〜)

木村は 1888年(明治21年)大阪電灯会社 の設立に関わり、 大阪で本格的な電灯供給を始める。

創業期の大阪電灯も、東京電灯と同じく課題だらけだった。

  • 発電所の建設資金の不足
  • 技術者の確保
  • 電線を張るための行政手続き
  • 需要家(顧客)をどう増やすか

しかし木村は、商人の街・大阪に合わせた戦略をとる。

  • 商店街への積極的な営業
  • 工場への電力供給を早期に開始
  • 「電灯は安全で便利」という宣伝活動

この“地に足のついた経営”が功を奏し、 大阪電灯は短期間で事業を拡大していく。

2-3 送電技術の進歩と大阪圏への広がり(1890年代)

1890年代 に入ると、送電技術は急速に進歩する。 大阪電灯はこれを積極的に取り入れ、 市内だけでなく周辺地域へも電力供給を広げていった。

  • 変電所の整備
  • 高圧送電の導入
  • 工場地帯への長距離供給

大阪は商業都市であると同時に、 紡績・鉄工などの工業都市でもあった。 木村の送電網整備は、 これらの産業を支える“見えない基盤”となっていく。

この広域化の流れは、のちの関西電力の前史として位置づけられる。

2-4 大阪に根づいた「電気のある暮らし」

木村の取り組みにより、 大阪では 1890年代後半〜1900年代初頭 にかけて 電灯が急速に普及していく。

  • 商店街が夜まで営業
  • 工場が夜間操業を開始
  • 港湾の作業効率が向上
  • 家庭にも電灯が入り始める

藤岡が東京に光をともしたように、 木村は大阪に「電気のある日常」を根づかせた。

彼の実務力と経営判断は、 関西の電力事業の基礎をつくったと言える。

松永安左エ門 ― “電力王”が描いた国家規模の電力網

3-1 九州で芽生えた「電力は国家の血流だ」という思想(1900年代初頭)

松永安左エ門が電気事業に関わり始めたのは、 1900年代初頭、まだ若い頃に九州で電灯会社の経営に携わったことがきっかけだった。

当時の九州は、炭鉱や鉄鋼業が発展しつつあり、 大量の電力を必要としていた。 松永はそこで、

  • 電気は産業を動かす“血流”である
  • 地域ごとにバラバラでは効率が悪い
  • 広域でつながる電力網が必要だ

という思想を早くから抱くようになる。

この視点こそが、のちに彼を“電力王”と呼ばせる原点となった。

3-2 九州電灯鉄道の改革と広域化(1910〜1920年代)

松永は 1910年代〜1920年代 にかけて、 九州の電力会社である 九州電灯鉄道(のちの九州電力の源流)で 経営改革を進めていく。

  • 発電所の近代化
  • 送電線の高圧化
  • 変電所の整備
  • 需要地と発電所を結ぶ長距離送電の導入

これらの改革により、九州の電力供給は大きく安定し、 地域の産業発展を支える基盤が整っていった。

松永は、単なる経営者ではなく、 「電力をどう届けるか」を国家レベルで考える先駆者だった。

3-3 電力国家管理論との対立(1930年代)

1930年代、日本では「電力国家管理法」をめぐり、 電力事業を国が一元管理するかどうかが大きな争点となった。

松永はこのとき、 「競争がなければ電力は強くならない」 という信念から、国家管理に強く反対する。

  • 発電・送電・配電の一体化は非効率
  • 民間の創意工夫が失われる
  • 広域連系は必要だが、独占は危険

彼の主張は当時は少数派だったが、 のちの電力自由化の議論につながる重要な思想となる。

3-4 戦後改革と10電力体制の設計(1945〜1951年)

敗戦後、GHQは日本の電力制度を見直すため、 松永を中心人物として改革を進める。

1948年(昭和23年) 松永はGHQと協力し、 発送電の分離と地域ごとの電力会社設立を提案する。

そして 1951年(昭和26年)、 現在につながる 「10電力体制」 が発足する。

  • 北海道電力
  • 東北電力
  • 東京電力
  • 中部電力
  • 北陸電力
  • 関西電力
  • 中国電力
  • 四国電力
  • 九州電力
  • 沖縄電力(後年設立)

松永の思想はここで結実する。

「地域ごとの電力会社が競争しつつ、広域連系で支え合う」 という仕組みは、戦後日本の高度成長を支える土台となった。

3-5 “電力王”と呼ばれた理由

松永安左エ門が“電力王”と呼ばれたのは、 単に企業を成功させたからではない。

  • 九州の電力基盤を整えた
  • 国家規模の電力網を構想した
  • 戦後の電力制度を設計した
  • 電力の未来を見据えた思想を持っていた

彼は「電気をどう届けるか」を生涯考え続けた人物だった。

送電網の整備 ― 電気を遠くへ、安定して届けるために

4-1 初期の送電技術の限界(1880〜1890年代)

藤岡市助や木村駒吉が電灯事業を始めた 1880〜1890年代、 日本の送電技術はまだ幼い段階にあった。

当時の主流は 低圧直流送電。 これは安全だが、電圧を上げられないため、 数百メートル〜数キロしか電気を送れないという致命的な制約があった。

  • 発電所は需要地のすぐ近くに作る必要がある
  • 都市の中心部に小規模発電所が乱立
  • 需要が増えるとすぐ限界に達する

藤岡や木村が苦労した背景には、 この「距離の壁」があった。

4-2 高圧交流送電の普及(1890〜1910年代)

転機は 1890年代 に訪れる。 変圧器の実用化により、 高圧交流送電 が世界的に普及し始めた。

日本でも 1890年代後半〜1900年代 にかけて、 交流方式が急速に広まる。

  • 変圧器で電圧を上げて送電
  • 遠距離でも電力損失が少ない
  • 需要地で電圧を下げて安全に供給

これにより、 都市内の短距離送電 → 都市間の長距離送電 へと電力事業のスケールが一気に広がった。

4-3 水力発電と長距離送電の時代(1910〜1930年代)

日本の地形は水力発電に適していた。 そのため 1910〜1930年代 は、 山間部の水力発電所から都市部へ電気を送る時代となる。

象徴的な例として、

  • 1914年(大正3年):京都電灯が蹴上発電所から送電
  • 1920年代:中部・関西で水力発電と都市部を結ぶ送電線が増加
  • 1930年代:10万V級の高圧送電が実用化

鉄塔、絶縁技術、変電所の整備が進み、 送電網は“国家インフラ”としての姿を帯び始める。

この流れは、のちの黒部川開発(黒四)へとつながっていく。

4-4 広域連系の始まりと“東西周波数問題”(1920〜1930年代)

1920〜1930年代、電力会社同士が送電線でつながり始め、 地域間で電力を融通する「広域連系」が進む。

しかしここで、日本特有の問題が生まれる。

  • 東日本:50Hz(ドイツ製発電機)
  • 西日本:60Hz(アメリカ製発電機)

という“周波数の分裂”である。

この違いは、 東西で電力を融通しにくいという構造的な制約となり、 現代まで影響を残す大問題となった。

(次回の「周波数分裂編」への重要な伏線。)

4-5 戦時体制と国家管理(1939〜1945年)

1939年(昭和14年)、 「電力国家管理法」により電力会社は統合され、 発電・送電・配電が一体化される。

  • 送電網は軍需産業を支える国家インフラへ
  • 大規模な発電所・送電線の整備が進む
  • しかし、官僚主導の非効率も増大

この時期の統合は、 戦後の電力再編の出発点にもなる。

4-6 戦後の再編と10電力体制(1951年〜)

敗戦後、GHQは日本の電力制度を抜本的に見直す。 中心となったのは、前章で登場した 松永安左エ門

  • 発送電の分離
  • 地域ごとの電力会社の設立
  • 広域連系を維持しつつ、地域独占で安定供給を図る

そして 1951年(昭和26年)、 現在につながる 10電力体制 が発足する。

この体制のもとで、 送電網は地域ごとに管理されながら、 全国をつなぐ“見えないネットワーク”として機能し続ける。

4-7 送電網が社会をどう変えたか

送電網の整備は、日本社会を根本から変えた。

  • 工場の稼働時間が延び、産業が成長
  • 夜間の街が明るくなり、安全性が向上
  • 家庭電化が一気に進む
  • 電気が「生活の基盤」へと変わる

藤岡・木村・松永が切り開いた道は、 技術と制度の発展によって全国へ広がり、 “電気が当たり前に届く社会”を形づくった。

(補足)松下幸之助 ― 電気を“暮らし”に変えた男

5-1 電気が届いた先に生まれた新しい需要(1910〜1920年代)

藤岡市助・木村駒吉・松永安左エ門らが整えた “電気を届ける仕組み”が全国に広がると、 次に必要になったのは 「電気をどう使うか」 という視点だった。

当時の家庭にはコンセントが1つしかなく、 電気はほぼ“電灯専用”。 電気の使い道はまだ限られていた。

その状況を変えたのが、 のちに“経営の神様”と呼ばれる 松下幸之助 である。

5-2 二股ソケットは“倒産寸前の町工場”が生んだ逆転の一手(1918年)

1918年(大正7年)、幸之助は大阪で 松下電気器具製作所を創業した。

しかしその実態は、

  • 従業員は幸之助・妻むめの・義弟の3人
  • 借家の2階を工場にした極小規模
  • 資金繰りは常にギリギリ
  • 材料の仕入れもツケ払い

という、倒産寸前の町工場だった。

そんな中で幸之助が“最後の賭け”として作ったのが 二股ソケットである。

これは、電灯のソケットに差すだけで 電灯+もう1つの電気製品を同時に使える という画期的な製品だった。

当時の家庭は契約電力が非常に小さく、 電灯とアイロンを同時に使うだけで ヒューズが飛んで電気が落ちることも多かった。

それでも二股ソケットは、 「電気は照明だけではない」という新しい価値観を家庭に広げ、 松下電気を倒産の危機から救う大ヒットとなった。

5-3 家電の普及と“電気のある暮らし”の誕生(1920〜1930年代)

二股ソケットの成功を足がかりに、 松下電器は次々と家庭向け電気製品を開発する。

  • 電気アイロン
  • 電気スタンド
  • 電気ラジオ
  • 電気炊飯器(試作段階)

これらの家電は、 電気が届く社会を“便利な暮らし”へ変える力を持っていた。

電気を届ける仕組みが整ったことで、 家電産業は一気に成長し始める。

5-4 戦後の危機とGHQとの攻防(1945〜1947年)

敗戦後、松下電器は 財閥指定 → 解体 の危機に直面する。

さらに松下幸之助自身も 公職追放(パージ) の対象に挙がった。

しかしここで、異例の出来事が起きる。

松下電器の社員と労働組合がGHQに嘆願書を提出し、

  • 「松下幸之助は戦争協力者ではない」
  • 「この人がいなければ会社は立ち行かない」
  • 「日本の復興に必要な人物だ」

と訴えたのである。

GHQはこれを受け、 幸之助を追放対象から外し、 松下電器は解体を免れた。

この判断が、 戦後の家電普及と松下電器の成長を可能にした。

5-5 三種の神器を全国に広げた家電産業の牽引者(1950年代)

戦後の復興が進むと、 日本の家庭では 冷蔵庫・洗濯機・テレビ が“夢の家電”として語られ、 のちに 三種の神器 と呼ばれるようになる。

国産第1号は、

  • テレビ:シャープ
  • 洗濯機:東芝
  • 冷蔵庫:東芝

だが、これらを 「誰もが買える家電」へと普及させた中心企業が松下電器だった。

  • 大量生産
  • 低価格化
  • 全国販売網
  • 修理サービス網

これらの仕組みを整え、 三種の神器を一般家庭へ一気に広げた。

電気は照明のためのものではなく、 生活そのものを支えるインフラへと変わった。

5-6 電力網 × 家電普及が生んだ高度成長のエンジン

藤岡・木村・松永が整えた“電気を届ける仕組み”と、 松下幸之助が広げた“電気を使う文化”は、 互いに影響し合いながら成長していく。

  • 家電が普及する
  • 電力需要が増える
  • 発電所・送電網が拡大する
  • さらに家電が普及する

この循環が、 日本の高度経済成長を支える大きなエンジンとなった。

松下幸之助は、 電気を“暮らしの文化”へと変えた人物として、 電力史の補足にふさわしい存在である。

第5回 終了


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