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第1回:「S100』/ 原点は1978年。将棋大会の帰りに震えた「カシオの電卓」の衝撃。


【連載】CASIO S100:48年の憧れ(全6回)


記憶の針を、1978年(昭和53年)へと戻してみる。 当時、小学6年生だった私の心は、二つの「知性」に揺さぶられていた。

ひとつは、祖父の隣でぼんやりと教わった「将棋の技術」。 もうひとつは、文房具屋のガラス越しに見た「電卓の魔法」だ。

縁側で触れた「筋道の立て方」

小さな頃、私はおじいさんの隣に座り、その指し方を眺めるともなく眺めていた。 「厳しく指導された」という記憶はない。ただ、おじいさんの指先が駒を動かすリズムや、次に打つべき一手への考え方を、ぼんやりと、けれど確実に、私は呼吸するように吸収していったのだと思う。

あの日、私は学校で開催された将棋大会に出場していた。 放課後の静まり返った教室。対局中、ふとした瞬間に、おじいさんから教わった筋道の立て方が頭に浮かぶ。

「そうか、ここはこう攻めるんだ」

結果は、惜しくも優勝には届かなかった。 けれど、自分の頭をフル回転させて一歩ずつ正解に近づこうとする、あの心地よい疲れは、私に「思考を組み立てる楽しさ」を教えてくれた。

西日に照らされた「デジタルという正解」

大会の帰り道、そんな心地よい疲労感の中で立ち寄った近所の文房具屋。 鉛筆やノートが並ぶ棚の片隅、最も神聖な場所である「ガラスのショーケース」の中に、それは鎮座していた。

カシオの電卓だ。

おじいさんと向き合う将棋が、自分の脳を柔らかく使って答えを探す「アナログな思考」だとしたら、電卓はボタンひとつで完璧な答えを導き出す「未知のデジタル知性」に見えた。

当時の電卓は、今のように薄くはない。 けれど、その金属的な輝きと精密なボタンの並びは、西日を浴びて神々しいほどに光っていた。

「自分の思考(将棋)」と「完璧な計算(電卓)」。 この二つが、私の中で不思議に共鳴したのを覚えている。

将棋の駒を指盤に置く時の感触。 電卓のキーを叩き、答えが現れる瞬間のカタルシス。 どちらも、自分の意志が指先を通じて道具へと伝わる、特別な瞬間だった。

48年越しの「指先の記憶」

「いつか、こんな精密な道具を使いこなす大人になりたい」

鼻をガラスに押し付けるようにして眺めていた、あの日の少年。 買えるはずもない高価な電卓を見つめていたあの時間は、私の技術者としての原風景となった。

48年経った今、私の手元にはさまざまな道具がある。 けれど、あの時ショーケースの中で放たれていた「完璧な道具」への憧れは、今も私の指先が鮮明に覚えている。

今、私がカシオの最高峰電卓「S100」を手にしたいと願うのは、単に計算をするためではない。 あの日の少年に、「48年待たせたけれど、ついに本物に出会えたぞ」と報告するためなのかもしれない。

私の電卓を巡る旅は、この静かな夕暮れの文房具屋から始まった。

第1回 終了


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