
19世紀の世界は、すでに「電信」という魔法を手に入れていました。 遠く離れた都市同士が、点と点を結ぶように文字の信号でつながる──それは人類にとって初めての“瞬時の通信”でした。
けれど、人々はすぐに気づきます。 文字だけでは、伝わらないものがある。
急ぎの知らせ、商談の駆け引き、家族の安否。 そこには、声の震えや息づかい、ためらい、喜びといった“生の情報”が宿っている。 電信は便利だったけれど、どこか冷たく、平板で、感情の温度を奪ってしまう。
「もし、この線の向こうに“声”を流せたら──」
そんな願いが、世界中の研究者たちを動かし始めます。 電気の力で音を運ぶという、当時としては大胆すぎる挑戦。 しかしその挑戦こそが、のちに私たちの暮らしを根底から変える“電話”という発明へとつながっていきました。
この章では、 なぜ人類は「声」を送りたくなったのか。 そして、どのようにして電話という技術が誕生したのか。 その始まりの物語をたどります。
電話の歴史シリーズ
全体目次(第1回〜最終回)
- 第1回:電話が生まれる前 ― 人類の通信の歴史
- 第2回:世界編(電話の誕生)
- 第3回:人物編(電話を作った人々)
- 第4回:日本に電話がやってきた
- 第5回:自動交換機とダイヤル式の時代
- 第6回:デジタル化とISDN
- 第7回:携帯電話の誕生と普及
- 電信から電話へ
- ベルとグレイ ― 電話誕生へ向かった技術と研究
- ベル vs グレイ ― 1876年、数時間差で決まった特許戦争
- 電話はなぜ実用化できたのか
- 電話網の全国化と通信インフラの再編
- 電話がつないだ未来
電信から電話へ
なぜ人は「声」を送りたくなったのか
電信がもたらした「革命」と「物足りなさ」
19世紀半ば、世界は電信の登場に驚きます。 モールス信号を使った電信は、遠く離れた都市同士を一瞬で結びました。 それまで何日も、時には何週間もかかっていた情報の伝達が、 「数分〜数時間」という桁違いの速さになったのです。
モールス信号とは何か
- 仕組み: 短い信号(・)と長い信号(-)の組み合わせで文字や数字を表現する方式。
- 役割: 文字情報を電気信号に変え、電線を通して遠くへ送る技術。
- インパクト: 新聞社、鉄道会社、政府機関、軍隊などで一気に普及し、 「情報のスピード」が社会の重要な競争力になっていきます。
しかし、どれほど画期的でも、電信には決定的な限界がありました。 それは──“声”が届かないことです。
文字だけでは足りなかったもの
電信で送れるのは、あくまで「文字情報」です。 そこには、話し手の感情や温度、迷い、ためらいといった 人間らしさの多くが、そぎ落とされてしまいます。
感情が抜け落ちるコミュニケーション
- 緊急の知らせ
- 家族の安否
- 重要な商談の行方
こうした場面では、 声の震え、息づかい、間(ま)、抑揚といった要素が、 相手の本気度や状況の切迫感を伝える重要な手がかりになります。
ところが電信では、それらがすべて「平らな文字列」になってしまう。 当時の人々は、次第にこう感じ始めます。
「電信は速い。けれど、心までは運んでくれない。」
ビジネスと日常が求めた「声」
電信の限界は、ビジネスの現場でもはっきりと現れました。
商談の現場で起きていたこと
- 価格交渉
- 契約条件のすり合わせ
- 相手の反応を探る微妙なやりとり
これらは、単なる情報のやり取りではなく、 相手の声色や間合いを感じ取りながら進む“生きた会話”です。
文字だけの電信では、 「本気で言っているのか」「迷っているのか」「怒っているのか」 といったニュアンスが読み取りづらく、 誤解や行き違いも少なくありませんでした。
日常生活でも
- 遠く離れた家族の無事を知りたい
- 病床の親族の容体を知りたい
- 子どもの声を聞きたい
こうした願いも、電信では十分には満たされません。 人々は、「文字ではなく、声そのものを届けたい」と強く望むようになります。
「声を送る」という無謀な挑戦
では、どうすれば「声」を遠くへ送れるのか。 ここから、技術者たちの大胆な挑戦が始まります。
音と電気をつなぐという発想
- 音: 空気の振動
- 電気: 導線の中を流れる電流の変化
このまったく性質の違う二つを、どう結びつけるのか。 当時の常識からすれば、それはほとんど「無茶な夢」に近いものでした。
それでも、世界各地の研究者・発明家たちは試行錯誤を重ねます。
- 音の振動を、何らかの方法で電気信号に変えられないか
- その電気信号を遠くまで送り、再び音として再生できないか
この発想こそが、のちに「電話」と呼ばれる技術の出発点になります。
技術を動かしたのは「人間の欲求」
ここまで見てきた流れを、少し整理してみます。
電信から電話への必然
- 電信は「速さ」という革命をもたらした
- しかし、「感情」「ニュアンス」「人間らしさ」は伝えきれなかった
- ビジネスも日常生活も、「声」を求めていた
- その強い欲求が、技術者たちを「音声通信」という未知の領域へと向かわせた
つまり、 電話は「便利だから発明された」のではなく、 「どうしても声を届けたかったから生まれた」 と言うことができます。
この先に続く物語
この第1章では、 「なぜ人類は“声”を送りたくなったのか」 という背景を見てきました。
次の章では、いよいよ アレクサンダー・グラハム・ベルとイライシャ・グレイという 二人の人物が登場します。
- ほぼ同じ時期に「電話」にたどり着いた二人
- たった数時間の差で決まった特許の行方
- 「誰が先に思いついたか」が、技術史をどう左右したのか
電話誕生のドラマが、一気に加速していきます。
ベルとグレイ ― 電話誕生へ向かった技術と研究
電話の発明は、二人の研究者が同じ時代に同じ問題へ挑んだことから始まった
19世紀後半、世界は電信によって文字を送れるようになっていたが、人々は「声をそのまま届けたい」という願いを強く抱いていた。 その願いに最初に近づいたのが、アレクサンダー・グラハム・ベルとイライシャ・グレイである。
二人はまったく異なる専門分野から出発しながら、ほぼ同じ時期に“声を電気で送る”という原理へ到達した。 この同時到達は、後に特許をめぐる激しい争いを生み、勝敗が電話の未来を決定づけることになる。 さらに、その後の改良によって技術は洗練され、世界中に広がる通信網の基礎となり、電話は社会インフラへと成長していく。
しかし、この物語を理解するためには、まず 「ベルとグレイはどんな人物で、どんな技術を生み出したのか」 を知る必要がある。 ここからは、二人の研究と技術を年代順に深掘りし、電話誕生の“技術的必然”を明らかにしていく。
ベルとグレイは何をした人なのか
名前は有名だが、技術内容まで知る人は少ない
アレクサンダー・グラハム・ベル(1847–1922)
- 電話の発明者として知られる
- 本職は電気技術者ではなく、音声・聴覚の教育者
- 聴覚障害者教育の中で音の振動を研究
- 電磁式送話器を発明し、1876年に電話の特許を取得
- 後にベル電話会社(のちのAT&T)の基盤を築く
イライシャ・グレイ(1835–1901)
- 電信技術の天才エンジニア
- 1869年に「グレイ・アンド・バートン」を共同創業(※1872年に後のウェスタン・エレクトリックへ改称)
- 多重電信の発明で知られ、電流制御の専門家
- 液体送話器を開発し、ベルと同日に特許申請
- “電話の同時発明者”として再評価が進む人物
1830〜1850年代:二人の原点
ベルは「音の世界」で育ち、グレイは「電気の世界」で育った
ベル(1847年生)
- スコットランド生まれ
- 母は聴覚障害、父は発声法研究者
- 幼少期から音・声・聴覚に強い関心
- 10代で音響実験を開始
- 音の仕組みを理解することが人生の中心となる
グレイ(1835年生)
- アメリカ・オハイオ州の農家に生まれる
- 機械いじりが得意
- 独学で電気工学を習得
- 若い頃から電信技術に没頭
- 電気の扱いに関して天才的な直感を持っていた
1860年代:研究の方向性が固まる
ベルは「声の研究」へ、グレイは「電信の改良」へ
ベル(1860年代)
- カナダ・アメリカで聴覚障害者教育に従事
- 音の振動・声帯の動き・空気の揺れを研究
- 「音を電気で伝える」発想の萌芽が生まれる
- 電信よりも“声”に強い関心を持っていた
グレイ(1860年代)
- 電信の改良で頭角を現す
- 多重電信(1本の線で複数信号を送る技術)を発明
- 1869年:「グレイ・アンド・バートン」を共同創業
- 1872年:社名が「ウェスタン・エレクトリック」に変更
- 電気回路の制御技術を磨き、音声伝送の可能性に近づいていく
1870〜1875年:電話の原理に近づく
二人は別々の道から、同じ問題に向かっていた
ベルの研究(1870〜1875)
- 音の振動を電気信号に変える実験を開始
- 電磁誘導を利用した「電磁式送話器」の原型を作る
- しかし電流が弱く、音が小さいという限界があった
- 「声を届けたい」という教育者としての願いが研究を支えた
グレイの研究(1870〜1875)
- 電流の強弱を細かく制御する方法を研究
- 音の振動で液体の抵抗が変わることに着目
- 液体送話器(リキッド・トランスミッター)を開発 → 電流変化が大きく、音声伝送に有利
- 技術的にはベルより実用に近かった可能性がある
1876年:二人が同時に「電話の原理」に到達
技術の違いが、後の運命を分ける
ベルの電磁式送話器
- 膜(ダイアフラム)が振動
- → 磁束が変化
- → 微弱な電流が発生
- 音は送れるが、電流が弱く実用性に乏しい
グレイの液体送話器
- 音の振動
- → 液体の抵抗が変化
- → 電流が大きく変化
- 原理は正しく、音も大きいが、液体の扱いが難しく実用化に不向き
1876年2月14日以前の研究状況
どちらが先に原理へ到達していたのか?
ベル
- 1875年:音声伝送の実験に成功したと主張
- 研究ノートに「音声電信」の記述
- ただし実験は不完全
グレイ
- 1875年末〜1876年初頭:液体送話器の完成度が高まる
- 1876年2月14日:ケーブアウト(発明予告書)提出
- 技術的にはベルより実用に近かった可能性が高い
歴史家の多くはこう評価する。
“原理に先に到達したのはグレイの可能性が高い。 しかし特許を押さえたのはベルだった。”
ベル vs グレイ ― 1876年、数時間差で決まった特許戦争
技術ではなく“制度”と“タイミング”が勝敗を決めた
1876年、電話の誕生をめぐって歴史的な事件が起きた。 アレクサンダー・グラハム・ベルとイライシャ・グレイが、 同じ日に電話の特許関連書類を提出したのである。
しかもその差は、わずか数時間。 この“数時間”が、電話の未来を決定づけた。
ここでは、特許制度の仕組みと二人の行動、 そして後に裁判へと発展する“疑惑”の種を整理する。
1876年2月14日 ― 運命の日
午前と午後の“時間差”が歴史を変えた
午前:グレイがケーブアウト(発明予告書)を提出
- ケーブアウトとは「発明をしたので、後で正式申請します」という予告書
- 発明の優先権を主張できる制度
- ただし、正式な特許申請ではない
午後:ベルが正式な特許申請を提出
- ベルは「電話の特許」を正式に提出
- 書類が形式的に完備しており、審査が即座に進行
- 結果:ベルが電話の特許を取得
制度上、 正式申請>予告書(ケーブアウト) であるため、ベルが優先された。
なぜベルが勝ったのか
技術の優劣ではなく、制度と“支援者”が勝敗を分けた
ベルの勝因は、技術の優秀さだけではない。 むしろ、技術的にはグレイの液体送話器の方が実用に近かった可能性がある。
勝敗を分けた要因は次の3つ。
1. ベルは正式申請、グレイは予告書だった → 特許局は正式申請を優先する。
2. ベルの書類は形式的に完備していた → 審査がスムーズに進んだ。
3. ベルには強力な支援者がいた ベルの背後には、義父であり出資者でもあった ガーディナー・ハバード がいた。
ハバードは電信独占企業ウェスタン・ユニオン(WU)を嫌い、 ベルを強力にバックアップしていた。 彼が組織した法務チームの動きが、 ベルの迅速な申請を可能にした。
ベルは“孤独な発明家”ではなく、 強力な支援者を持つ側だった。
浮上した疑惑 ― “余白の液体送話器スケッチ”
後の裁判で最大の争点となる“影”が、この日に生まれた
ベルの特許申請書には、 当初なかったはずの液体送話器(グレイの方式)に酷似した図面が、余白に書き加えられていた という記録が残っている。
- その構造はグレイのケーブアウトと非常に似ていた
- 書き込みの位置や筆跡から「後から追加されたのではないか」と疑われた
- これが「ベルはグレイのアイデアを盗んだのでは?」という疑惑の核心となる
この疑惑は、後の裁判で最大の争点となり、 電話史に長く影を落とすことになる。
特許戦争の後、二人はどう動いたのか
ベルは事業へ、グレイは研究へ戻る
ベルの動き
- 特許取得後、資本家と組んで電話事業を開始
- ベル電話会社(のちのAT&T)を設立
- 電話網の整備へと進む
グレイの動き
- 特許争いに巻き込まれたが、長期戦を望まなかった
- 電話の権利争いから距離を置き、研究者としての道へ戻る
- 後に テルオートグラフ(ファックスの先祖) を発明し、技術史に名を残す
電話の特許では敗れたが、 グレイの技術者としての人生は決して敗北ではなかった。
電話はなぜ実用化できたのか
裁判、炭素送話器、そして電話網の誕生
ベルが特許を取得した1876年当時、電話はまだ“実験装置”にすぎなかった。 しかしその後数年、 裁判での勝利 → 技術の改良 → インフラ構築 という三段階を経て、電話は社会インフラへと進化していく。
ここでは、1878〜1879年にかけて繰り広げられた “電話戦争”の核心を追っていく。
裁判の本編 ― ベル vs ウェスタン・ユニオン
これは単なる特許争いではなく、“通信インフラの覇権戦争”だった
ベルの特許取得に対し、電信の王者 ウェスタン・ユニオン(WU) は猛反発した。 WUはグレイとエジソンを味方につけ、 「ベルの特許は無効だ」 と主張して裁判を起こす。
争点は3つ。
争点①:ベルの申請書に“後から書き加えられたような液体送話器スケッチ”
WUはこう主張した。
- ベルの申請書の余白に、 グレイの液体送話器に酷似した図面が書き加えられている
- これは「後から追加された証拠」ではないか
- ベルはグレイのケーブアウトを見たのではないか
さらに現代の研究(セス・シュルマンら)では、 この部分だけインクの種類が異なる ことが指摘されている。 科学的にも「後から書き加えられた可能性」が示唆されているのだ。
争点②:ベルは液体送話器の原理を理解していなかったのでは?
WUはベルの研究ノートを証拠に出し、
- ベルは液体方式を理解していなかった
- なのに申請書には液体方式の図がある
- これは不自然であり、盗用の証拠だ
と主張した。
争点③:ベル側の弁護士が特許局職員に“接触”した疑惑
WUは、ベル側の弁護士が特許局職員と接触し、 グレイのケーブアウトの内容を知った可能性 を指摘した。
決定的証拠はなかったが、裁判では大きな論点となった。
ベル側の反論 ― 「私は独自に到達していた」
反論①:液体送話器は“研究の一部”にすぎない
ベル側はこう主張した。
- 液体方式はベルが試した方式の一つ
- しかし最終的に採用したのは電磁式送話器
- したがって液体方式は“主要発明”ではない
反論②:研究ノートに“音声電信”の記述がある
ベル側は、1875年の研究ノートを証拠に出し、
- ベルはグレイより前に音声伝送の原理に到達していた
- 盗用の必要はない
と主張した。
反論③:職員との接触は“手続き上の確認”
ベル側は、弁護士が特許局職員と接触したことは認めたが、
- それは手続き上の確認であり
- グレイの書類を見たわけではない
と反論した。
裁判の結末 ― “疑惑は残るが、証拠不十分”
裁判所はベルの特許を有効と判断
裁判所の判断はこうだった。
- ベルの特許は有効
- グレイのケーブアウトは予告書であり、特許としての効力は弱い
- 余白スケッチが後から書かれたかどうかは証明できない
つまり、 “疑惑はあるが、決定的証拠がない” という理由で、ベルが勝利した。
しかし、真の決定打は裁判ではなく、 その後の 和解 だった。
和解 ― 通信インフラの未来を決めた“3つの条件”
1. WUは電話事業から撤退する
読者が最も疑問に思うのがここだ。
「なぜあの巨大WUが、急に電話を手放したのか?」
理由は3つある。
① 電話は“本業を食い始める危険な新技術”だった
- WUの本業=電信
- 電話が普及すれば、電信の需要は確実に減る
- 新規事業であると同時に、自社の既存ビジネスを脅かす存在だった
② 裁判に負けた場合のリスクが巨大すぎた
- ベルの特許が有効と確定すれば、 WUが敷設した電話線・電話機はすべて“違法設備”になる
- 損害賠償・撤去・ブランド失墜…リスクは計り知れない
③ 和解で“悪くない条件”を引き出せた
- 電信の独占は守れる
- ベルは電信に手を出さない
- 自社の既得権益は完全に保全される
つまりWUは、 「電話という新戦場からは手を引き、その代わり電信という王座を守る」 という、極めて合理的な“守りの経営判断”をしたのである。
2. ベル電話会社は炭素送話器の使用権を得る
WUが抱えていた最大の武器、 エジソンの炭素送話器。
これをベル電話会社が使えるようになったことで、 ベルの電話は一気に“実用レベル”へ進化した。
3. ベル電話会社は電信事業に参入しない
WUは電信の独占を守りたかった。 ベル側も電話だけで手一杯だったため、 “電信=WU、電話=ベル” という棲み分けが成立した。
これは、 通信インフラの勢力図を決めた歴史的合意だった。
電話の実用化 ― エジソンの炭素送話器がすべてを変えた
ベル方式とエジソン方式の“発想の違い”
炭素送話器は、
- 声が大きい
- 遠距離でも聞こえる
- 安定している
- 量産できる
という、当時としては圧倒的な性能を持っていた。
ここで重要なのは、 ベル方式とエジソン方式の“発想の違い” である。
ベル方式:声のエネルギーそのもので電気を作る(弱い) エジソン方式:電池の電流を、声で“操る”(強い)
この発想の転換こそが、 電話を実用化へ押し上げた最大の技術的ブレイクスルーだった。
電話網の誕生 ― ベルは“ゼロからインフラを作った”
電信網は使えたのか? → 技術的には使えたが、WUが貸さなかった
そのためベル電話会社は、
- 自分で電柱を立て
- 自分で線を張り
- 自分で交換局を作り
- 自分で交換手を雇い
- 自分で料金体系を作った
つまり、 新興企業が全国に通信インフラを作った という前代未聞の挑戦だった。
交換局方式の誕生 ― “1電話=1本の線”の限界を突破
交換手という“人的インフラ”の誕生
最初期の電話は 1対1の直結方式 だったため、 電話が増えるほど電線も増え、都市は“クモの巣”状態になった。
そこで登場したのが 交換局方式。
- 家庭 → 交換局(1本)
- 交換局 → 相手の家庭(交換手が接続)
これにより、 線の本数は劇的に減り、電話網は一気に拡大した。
さらに社会史的に興味深いのは、 交換手という新しい職業が女性の社会進出を後押ししたことだ。
当初は少年が交換手を務めていたが、 いたずら好きで口が悪く、苦情が絶えなかった。 そこで電話会社は、 丁寧で忍耐強い若い女性 を採用するようになり、 これがアメリカにおける女性の大規模な社会進出の最初の波となった。
電話網の全国化と通信インフラの再編
― 電信から電話へ、アメリカの通信網はどう変わったのか
ベルが裁判と和解で勝利した後、 アメリカの通信インフラは大きな転換期を迎える。
- 電信網はどうなったのか
- 電話網はどう全国へ広がったのか
- AT&Tはなぜ巨大独占企業になったのか
ここでは、通信インフラの主役交代 のプロセスを追っていく。
電信網はすぐには消えなかった
電信は「文字通信」という別用途で生き残った
電話が普及し始めても、電信には依然として強みがあった。
- 長距離に強い
- ノイズに強い
- 料金が安い
- 新聞社・鉄道・政府が大量に利用
つまり、 電話=音声、電信=文字 という住み分けがしばらく続いた。
電信網はすぐに撤去されるどころか、 むしろ“別用途の通信インフラ”として維持されていた。
電話網の拡大が電信の地位を揺るがす
電話は「リアルタイム性」で電信を圧倒した
電話は、電信にはない強みを持っていた。
- 即時性
- 会話の柔軟性
- 誤解の少なさ
企業も政府も、 「早い方がいい」 という理由で、徐々に電話へ移行していく。
その結果、電信の需要はゆっくりと減少していった。
電信網は“撤去”ではなく“用途変更”されていった
電信線は電話線にそのまま転用できなかった(単線→複線の壁)
ここが技術史の核心だ。
電信線は、 地面を帰路に使う「単線式」 だった。 (片側の線だけを張り、戻りは大地を利用する方式)
一方、電話は音声信号が微弱なため、 ノイズを避けるには 2本の線で往復する「複線式(ツイストペア)」 が必須だった。
つまり、
電信線を“そのまま”電話線にすることは不可能だった。
実態に近いのは「電信の電柱ルートを使い、電話線を新設した」
電信線そのものではなく、
- 電柱
- ルート(経路)
- 敷設ノウハウ
といった“インフラの骨格”を活かしつつ、 電話用の高品質な銅線を2本ずつ張り直した のが実態である。
電信線と電話線は「共存」していた時期が長い
ここが非常に重要だ。
電信線を撤去して電話線に置き換えたのではなく、 同じ電柱に電信線と電話線が並んで張られていた(添架) 時期が長く続いた。
やがて電信の利用が減るにつれ、
- メンテナンスされなくなった電信線が撤去
- 電話線だけが残る
という “グラデーションのような交代劇” が進んでいく。
AT&Tが電信を追い詰めた決定打:長距離電話の技術
電信は長距離に強かったが、電話は弱かった(当初)
電信は中継(リレー)が容易だったため、 大陸横断通信も問題なく行えた。
しかし電話は、
- 信号が弱い
- 距離が伸びると減衰
- ノイズに弱い
という致命的な弱点があった。
AT&Tが開発した「装荷コイル」と「真空管増幅器」
1890年代以降、AT&Tは長距離通話のための技術を次々と開発する。
装荷コイル(パップ装荷)
- 伝送線にコイルを一定間隔で挿入
- 信号の減衰を劇的に改善
- 長距離通話の実用化に貢献
真空管増幅器(1910年代)
- 音声信号を途中で“増幅”できるようになった
- 大陸横断電話(NY〜サンフランシスコ)が実現
これにより、 電信の長距離優位性は完全に崩れた。
AT&Tは「声を遠くへ届ける技術」を独占し、 通信インフラの主導権を握った。
電信網は譲渡されたのか?
公式な「インフラ譲渡記録」は存在しない
WUは電話から撤退したが、 電信事業そのものは続けていた ため、 電信網をAT&Tに売却する理由がなかった。
したがって、
- 電柱
- 電線
- 中継局
などの物理インフラが AT&Tに“譲渡された”という記録は存在しない。
しかし、AT&TはWUそのものを飲み込もうとした時期がある(1909年)
ここは歴史的に非常に重要だ。
1909年、AT&TはWUの株式を大量取得し、 実質的に傘下に収めた。
後に独占禁止法の懸念で分離されたが、 この出来事は、
AT&Tが通信インフラを完全支配しようとしていた証拠
として象徴的である。
AT&Tは自前の電話網を全国に敷設した
電信網を買う必要がなかった
AT&Tは電信網を買収するよりも、 自前で電話網を敷設する方が合理的 だった。
理由:
- 電信線は単線で電話には不向き
- WUの資産を買うのは政治的に難しい
- 独占企業として“自前の網”を持つ方が強い
そのためAT&Tは、 電信網を買わずに、電話網を全国に構築した。
電信網の終焉とWUの転身
WUは通信から撤退し、金融企業へ変貌した
電信の需要が減るにつれ、WUは通信事業を縮小し、 送金サービス企業(Money Transfer) へと転身した。
その結果──
- 電信線はメンテされず撤去
- 電信局は電話局に転用
- 電信技師は電話会社に転職
- 電信網は電話網に吸収
通信インフラの主導権は完全にAT&Tへ移った。
AT&Tは“アメリカの通信インフラ”を独占した
ベル・システムの完成
AT&Tは、
- 電信網の残骸
- 自前の電話網
- 交換局
- 長距離線
- 増幅技術
これらを統合し、 アメリカ全土を覆う巨大通信ネットワーク(ベル・システム) を完成させた。
結果として、
電信網は電話網に吸収され、 電話網が通信インフラの本体となった。
電話がつないだ未来
― 長距離通信の完成と海底ケーブル、そしてインターネットへの橋渡し
第5章までで、電話網がアメリカ全土に広がり、 電信網を吸収しながら通信インフラの主役へと成長した過程を見てきた。
しかし、電話の物語はここで終わらない。 むしろここから、通信の新しい時代 が始まる。
長距離電話の完成 ― 「声が大陸を越える」時代へ
電話の最大の弱点は“距離”だった
初期の電話は、都市内の短距離でしか使えなかった。
- 信号が弱い
- 減衰が激しい
- ノイズに弱い
電信は大陸横断できても、 電話は数十kmで限界だった。
パップ装荷コイル ― 「わざと電気の通りを悪くする」逆転の発想
1890年代、AT&Tの物理学者 マイケル・パップ が実用化した 装荷コイル(パップ装荷) は、長距離電話の歴史を変えた。
普通は「電気は通りやすい方がいい」と考える。 しかしパップは逆をやった。
・電線にインダクタンス(コイル)を一定間隔で挿入 ・あえて電気の通りを悪くする ・その結果、信号の歪みと減衰が劇的に減る
この逆転の発想により、 通話可能距離は 3〜4倍 に伸びた。
- ニューヨーク〜ワシントン
- ニューヨーク〜シカゴ
といった都市間通話が現実的になり、 電話は「都市内の道具」から「都市間通信」へと進化した。
真空管増幅器の登場で、大陸横断電話が実現
1910年代、真空管増幅器が実用化されると、 電話はついに“世界規模”の通信へと進化する。
- 信号を途中で増幅できる
- 大陸横断電話(NY〜サンフランシスコ)が成功
- 海底ケーブルでの音声伝送が現実味を帯びる
これにより、 電信の長距離優位性は完全に崩れた。
海底ケーブルの敷設 ― 電話が“世界”をつなぎ始めた瞬間
最初の海底ケーブルは「電信」だった
電話よりもずっと早く、海底ケーブルは電信(モールス信号)のために敷設されていた。
- 1858年:アメリカとイギリスを結ぶ最初の大西洋横断ケーブル
- 数週間で断線
- 1866年:改良版が成功し、安定運用が始まる
この時点で、 世界はすでに「文字」でつながっていた。
しかし、これは「声の世界」ではなかった。
電話は電信より“はるかに難しい”
海底ケーブルで電話を通すのは、電信とは比較にならないほど難しかった。
① 電話はアナログ音声で、信号が弱い ② 海底ケーブルは長距離で減衰が激しい ③ 海水はノイズが多く、声が消えてしまう
つまり、
電信は海を越えられたが、電話は海を越えられなかった。
AT&Tが挑んだ「声を海の向こうへ届ける」戦い
電話を海底ケーブルで送るためには、 信号を途中で“増幅”する技術 が必要だった。
ここで登場するのが、 真空管増幅器である。
真空管増幅器が海底ケーブルを可能にした
真空管は、微弱な音声信号を大きく増幅できる。
- 1910年代:真空管増幅器の実用化
- 1920〜30年代:海底ケーブルでの音声伝送実験が成功
- 1950年代:実用化の準備が整う
これにより、 「声を海の向こうへ届ける」ための技術的基盤が整った。
そして1956年、ついに“電話の海底ケーブル”が開通
1956年、 世界初の電話用海底ケーブル「TAT-1」 が開通する。
- イギリス(スコットランド)〜カナダ(ニューファンドランド)
- 同時通話36回線
- AT&T・英郵政省・カナダ政府の共同事業
これにより、 世界は初めて「声」でつながった。
TAT-1の衝撃 ― 海の底で20年以上動き続けた真空管
TAT-1の最大の技術的偉業は、 「深海数千メートルで20年以上、一度も故障しなかった真空管」 の存在だった。
当時の真空管は、
- 家庭用ラジオですら数年で寿命
- 熱・湿気・衝撃に弱い
という“壊れやすい部品”だった。
しかしベル研究所は、 海底専用の超高信頼性真空管 を開発した。
・深海圧力に耐える ・温度変化に耐える ・湿気ゼロの密閉構造 ・20年以上連続稼働
この品質管理技術は、 後の宇宙開発・半導体製造の基礎となり、 ベル研究所が“怪物的な技術集団”と呼ばれる理由 のひとつとなった。
海底ケーブルはその後、光ファイバーへ進化する
1970年代以降、光ファイバーが登場すると、 海底ケーブルは再び大きく進化する。
- ノイズに強い
- 減衰が少ない
- 大容量
- 高速
その結果、 現代のインターネットの99%以上は海底ケーブルでつながっている。
つまり、
海底ケーブルは、電話のために生まれ、 インターネットのために進化した。
AT&Tの巨大独占 ― ベル・システムの完成
AT&Tは「通信のすべて」を握った
装荷コイルと真空管増幅器を独占したAT&Tは、 アメリカの通信インフラを完全に支配する。
- 電話機の製造
- 電柱・電線
- 交換局
- 長距離線
- 技術開発
- 料金体系
すべてがAT&Tの管理下に置かれた。
AT&Tは一度、WUすら飲み込もうとした(1909年)
1909年、AT&TはWUの株式を大量取得し、 実質的に傘下に収めた。
後に独占禁止法の懸念で分離されたが、 この出来事は、
AT&Tが通信インフラを完全支配しようとしていた証拠
として象徴的である。
電信網の終焉と電話網の支配
電信線と電話線は長く共存していた
電信線は単線式、電話線は複線式であり、 電信線をそのまま電話線に転用することはできなかった。
そのため、
- 電信線と電話線が同じ電柱に共存
- 電信の利用が減ると電信線が撤去
- 電話線だけが残る
という “グラデーションのような交代劇” が進んだ。
電信は「送金サービス」へと姿を変えた
WUは通信から撤退し、 Money Transfer(送金サービス)企業 へと転身した。
通信の主役は完全に電話へ移った。
電話網は“デジタル通信”の基盤になった
交換局の自動化とデジタル化
20世紀後半、電話網はさらに進化する。
- 手動交換 → 自動交換
- アナログ → デジタル
- 同軸ケーブル → 光ファイバー
これにより、電話網は 「音声だけでなくデータも流せる網」 へと変貌していく。
インターネットは電話網の上に生まれた
1990年代、家庭のインターネット接続で聞こえた 「ピー、ガー、ヒョロヒョロ…」という音。
あれは、 デジタルの0と1を、電話網が通せる“音”に変換していた音 である。
モデム(Modem)は、
- Modulator(変調)
- Demodulator(復調)
の略で、 デジタル信号 ↔ アナログ音声 を変換する装置だった。
つまり、
インターネットは、電話網の構造をそのまま借りて誕生した。
現代の通信インフラへ
光ファイバーも携帯電話も、ルーツは「電話網」
現代の通信は、
- 光ファイバー
- 携帯電話
- スマートフォン
- インターネット
- クラウド
など多様だが、 その根底には 電話網の構造と思想 が生きている。
- 交換局 → ルーター
- 長距離線 → 光ファイバー
- 電話番号 → IPアドレス
- 交換手 → プロトコル
通信の概念は、 電話網が作った“道”の上に成り立っている。
第2回 終了


